暖かい朝だ |
先ほどラジオ体操して、ゴミ出しに行ってきた
寒くない。
フリースを羽織っただけで、キルテングは必要ない
まさかこのまま移行するとは思えないがね。
でもこの気温が続くとアウトドアしたくなるね
藤原京資料室ではガイド2人。
訪問者一人っきり(僕のこと)
かなり詳しく説明してもらった
1時間くらい?もう頭に入らないよ―――!!
*16年で奈良へ???
藤原京は天武天皇存命中から数えれば10年以上の歳月を費やして造営された都だった。それが、何故かわずか16年で放棄され平城京に遷ってしまった。その背景として、地形的に手狭となり、大宝律令による政治機構の拡充に対応できなかったことを理由にあげる説がある。しかし、大藤原京の京域が平城京のそれより広かったことが明らかになった現在、この説は支持されない。
藤原京の地勢的な立地を指摘する説もある。すなわち飛鳥地方は北より南の方が地形が高く、河川は南から北へ流れる。当時の汚水処理がどのように行われたのか詳しくは知らないが、道路の脇に築かれた側溝を通して流れる仕組みになっていたのであれば、藤原京の北側ではひどい臭気に悩まされたであろう。そうした都市のインフラをしっかり考慮に入れて造営計画がなされなかったことが、早々と廃都となった原因であるというのである。はたして、どうであろうか。
粟田真人も見たであろう唐皇城の含光門の城壁 |
長い中断ののち、我が国は大宝元年(701)に遣唐使の派遣を再開する。すでに藤原京という条坊制の都城を完成させ、また新たに大宝律令という法の整備も終えて、唐と対等に付き合う律令国家としての対面は整ったと、時の為政者は判断したのだろう。粟田真人を執節使
彼らが想像していた唐の都は、平面プランも規模も藤原京とは全く異なっていた。その長安城の様子は、2年後の大宝4年に帰朝した粟田真人たちから、政府首脳に伝えられたであろう。立派な都城を完成させ法制も整備したと自負していた為政者たちは、大いに驚愕したにちがいない。時を経ずして、実際の長安城に倣った新都計画が持ち上がった。こうしたことが、平城京を新しく建設することになった直接の動機ではなかったかと推測されている。
和銅元年(708)年2月、平城遷都の詔が発せられ、2年後の和銅3年(710)3月、元明天皇は都を平城京へと移した。首都移転の理由については、上記のようにいろいろな説があるが、藤原京はわずか16年で首都の役割を終えたことになる。藤原京にあった建物や塀は解体され、再利用できる柱・瓦・礎石などの資材は平城京へ運ばれた。役人達も平城京へ移り住むことを余儀なくされ、藤原京はあっという間に廃虚と化した。